透谷(とうこく)の刺青

 自由民権カレッジ2期生の報告があり、暫し聞き入ったのは青木さんの「透谷のアンビション」だった。
 論文集には書かれていないいくつかのことに大きな刺激を受けた。
 北村透谷に心酔する人、嫌う人と大きく二つに分かれ、透谷の墓のある小田原のお寺に自分の墓を立てるほどに心酔する人もあり、今も透谷研究会があるという。

 透谷の写真は二葉しか残されていないが、少年期のものと青年期のものの違いに驚かされる。

 

 自由民権運動家という枠からは外して、民権シンパというほどに位置づけないと資金強奪メンバーから外れたときの周囲の言動を理解できない。

 結構遊興に耽ったらしく、八王子の遊女の名前を刺青していたという人がいる。
 一方、彼と結婚した石阪美那は「ざくろ」の刺青をしていたと語っている。
 妻の言うことの方が信憑性があるが、透谷とざくろは結びつきようがなく、彼が尊敬する芭蕉に因んで「もも」であれば納得できるが、貧しかった彼は自分で入れたのかも知れず、素人の手なるがゆえに「ざくろ」のようになったのではないか。

 同じ小田原出身の二宮尊徳を尊敬していたというが、透谷と尊徳を結びつける糸はないとする論もある。
 また、下級士族の家に生まれた彼の父は、維新後素早く転身し大蔵官吏となった。
 本名・門太郎時代から多くのペンネームを持って各種雑誌に寄稿しており、住んだ数寄屋橋に因んだ透谷(すきや=とうこく)が最も知られている。