民権カレッジ・フィールドワーク

 今日は自由民権カレッジのフィールドワークがあり、町田市街を歩いた。

 明治初年の廃仏毀釈で廃寺となった延命院の跡地はすでに道路となりまるで面影も無かった。

 浄運寺には明治25年に暗殺された(時の総選挙で石阪派を裏切り吉野泰三を支持したため「凌霜館生=壮士に仕込刀で斬殺)医師・大須賀明の小さな墓石が残されていた。また、宿場を仕切っていた親分(清水次郎長と兄弟杯を交わしたと言われる)の墓が系列の親分衆の仰々しい名前が刻まれて…。

 原町田の「絹の道」はその面影を偲ぶよすがもないが、明治期の写真には正面に浄運寺の森があり、高札場が右手にある。現在は高札場があった辺りは小さな八百屋が…。
 




 絹の道沿いに、原町田村の名主・三橋家、武藤家の屋敷跡、民権家・渋谷仙次郎・三郎=坂本家へ養子に行き樋口一葉の許婚として知られる=生まれた家の跡=それぞれ何にも残ってない=などを歩き、勝楽寺=今年4月に新築し納骨ビルになっている=から旧藤沢道を経て、町田天満宮へ行くと恒例の骨董市が開かれていた。


 天満宮の境内に神奈川と藤沢への分かれ道にあった道標が置かれていた。「ひだりはかながわ」、「みぎはひらつか」とそれぞれ側面に刻まれていた。
  
 
 宗保院は何度も火災を経験しているので建物は新しいのだが、仁王門の大きさは町田随一ではないだろうか。

 さて、最後の訪問場所は「鹿島神社・青柳寺」だ。ここには「武相困民党」が明治17年7月31日に集結したという碑があり、その佇まいが困民党集結の場に相応しいものだった。
 行程2時間。梅雨の晴れ間の歩きは疲れた!


 感想を一言。
 大きな敷地=資産を持つ宗教法人って其処に縁の無い者にとっては、その資産を広く開放してほしいと思った。
 なにかに胡坐をかいているという印象を持ったのは私だけではなかった。きちんと税金を納めてほしいと言うと信教の自由を侵すことになるのかな?
  

 引率の風さん、昌さん、暑い中ご苦労さんでした。